ふくろうの森新聞記事

(ふくろうの森新聞より引用)

夢が夢なら

夢が夢なら、それでもかまわない
コラムの題名にもなっているこのフレーズは、音楽家(現在は芸術活動家)小沢健二氏のレコードから頂戴しております。心の中に現れては消えていく、現実と想像の世界の情景を、美しい言葉をたずさえながら淡々と物語る秀逸な作品ですが、今になって思うと、実の父親である昔ばなし研究家小澤俊夫氏からの影響が当時の健二氏の作品にも少なからず影響を与えていたことは疑いないでしょう。とすると、健二氏の作品には、人類が何百年(あるいは何千年)も大切にしてきた童話や民話のリズムや構造のエッセンスが惜しみなく投入されているのだと想像できます。
話は変わって、夢を見るという表現の中には、2つの意味があります。一つは、寝ている間に見る夢。もう一つは、頭の中で思い描く未来への夢。どちらも目に見えないのに「見る」という動詞とセットで語られます。それでは、目に見えないものを見るという行為は、いったいどういうことなのでしょうか。普通に考えると、目に見えないものは見えないのは当たり前でしょうが、夢や心の感情や音などは、決して目に見えるものではないのにも関わらず、確かにそこにあります。人類学や心理学、芸術学、宗教学などは、この「目に見えないもの」を研究する代表選手で、どの学問も、人類の、心の世界を探検している学問だと言えます。何々学というと、遠い世界のような気がしますが、心の世界は、日常生活にたくさん溢れています。目の前の他人が、何を考えているかを想像し共感・反感する事は、誰もが毎日行ない、生きていく上でとても重要な事です。これが、人間のみならず、動植物や風景などあらゆる対象の心情を想像するところに芸術が生まれます。心の状態を外に向かって表現する最も有効な手段は芸術です。恋愛や悲しい事、桜などの景色を想う事などが歌になりやすいのは、それらが比較的、心の共感が容易な内容だからでしょう。芸術というと、割と新しい分野のようですが、実は、人類には、5万年以上も前から、心を表現する欲望、つまり芸術活動の芽生えがあったという証拠がフランスに残されています。本来、人間は、心情を表に出したい欲求を持っているのです。けれども、人間の成長段階で、心を表現する技法を学ぶ機会が少なく、また、その欲求を押し殺し知識を詰め込むことを最良として育てられたとしたら、どこかで必ず無理が生じます。粗末な表現で自分の心を表そうとするのです。それは、声に出ない事もあるでしょうし、声を荒げる事もある。また、TVや映画、ゲームなどのマルチメディアも、自らの心を、ある程度自在に操れた状態で見れば娯楽として楽しめますが、乏しい心で向かい合うと、とたんに飲み込まれてしまい、心そのものを支配されかねません。そうならないためには、小さい頃から(幼少だからこそ)、自分の心情を、自由に表現できる方法を会得すべきなのです。自由は、突然与えられても上手く操れません。空を飛ぼうと羽を広げる小鳥のように、自由になる訓練が必要です。私は、現代の教育や世論が、子どもの身体の危険回避についてのみ、大きく取り上げられる事に疑問があり、心のリスクマネジメントも、同様に重要だと感じます。心が危うい状態のまま成長すると、自由は暴走に変わります。私が保育園で園児と共に行なっている「イロトモ」「オトキャッチ」という芸術活動は、まさに、心を解放し、自分の気持ちを豊かに表現させるための時間です。素晴らしい筆さばきや、流暢な指使いは二の次です。こみ上げる思いや想像の世界を、素直に引き出すことが最大の目標です。見えないものを見ようとする時間を経験した子どもは、たくさんの夢が見える。「夢を見る」ということは、どれほど見えないものを見るかの蓄積なのではないでしょうか。

夢が夢ならそれでもかまわない、かまわないですよね。
夢をたくさん見る。
寝ても覚めても夢を想う。
夢をたくさん見た人は、今まで見えなかった世界が大きく広がるでしょう。

しぜんの国保育園副園長 齋藤紘良


<心と芸術がからみ合っている本>

geijyutsu.bmp
中沢新一<芸術人類学>みすず書房

taro.bmp
岡本太郎<今日の芸術>光文社

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