幸せの続き
「貧しい国の人達に申し訳ないから、残さず食べなさい。」
80年代に流行った文句だったが、
幼少の頃から、腑に落ちませんでした。
自分の置かれている環境がさも悪くて、貧しい国と呼ばれた環境に
水準を合わせなければいけないという、見えない強制に違和感が
あったからだと思います。
ある国際ボランティア団体の方が話していた事。
インドの露店で、
店員が通常より高い値段を吹っかけてくる話題について、
「彼らが正当な値段を言っていないのはわかってる。だけど、
私たちにとってはたいした額ではないんだから、値切らないで
黙って買ってあげなさい。それがボランティアなのよ。」
ボランティアとは何だろうと考えていた時期に、
どうも腑に落ちない言葉でした。
値切り交渉を行う事で彼らと会話が生まれ、
それが楽しく、また話そうという気になるのに、
その楽しさを慈善という言葉を盾に、
否定された気分だったからだと思います。
最近、幸せはなんだろうと考える事が多くなりました。
幸せの基準を押し付ける事ほど迷惑な話はありません。
お金を多く持っているかどうかで幸せを判断する人。
あることを信じれば幸せになれると他人に詰め寄る人。
そうやって幸せの基準を1つしか持てない人ほど、
あまり幸せに見えないのはなぜなのでしょう。
本当は、人それぞれの価値観で判断すれば、
幸せなんかいくらでも転がっているのに、
他人の環境を考えずに
絶対値を作ろうとするから、
そこに無理が出てくるのではないでしょうか。
67億人いれば67億通りの
幸せの基準があるはずですが、
誰かが作った幸せ価値の情報が多くなれば、
人は自分なりの幸せを認識することが鈍くなる。
目の前にいる相手の置かれている状況、
立場、心情などは、
当然自分と違うのだから、
無理に自分と合わせようとする
必要はないはずなのに、
どうも、自分の価値観と相手の価値観が違うと、
衝突するか、分かり合うことをあきらめてしまうのは、
僕にもあります。
これは、もしかしたら、
自分なりの価値基準に自信がないからかもしれません。
それだけ自分の身体で感じた幸せが少ない証拠のような気がして、
もっともっと、いろいろな幸せを経験しなければ、
他人の幸せを読み取れないなと痛感します。
昨日、兄弟姉妹で、久しぶりに晩酌をする事がありました。
以前までは、歳の違いもあり、ほぼ決まって価値観の違いを
ダメ出しされる弟でしたので、
嫌な気持ちになって帰っていたのですが、
昨晩は、少しは自分なりの幸せ基準に自信がついたのか、
嫌な気持ちではなく、
たまに集まって本音でぶつかり合える事に、
密かな幸せを感じました。

